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日本とアメリカを繋ぐ懸け橋
コース案内
ツアーを企画した目的がここ、マンザナー日系人強制収容所跡にあります。
理由は下記を呼んでください。
マンザナー国定史跡
日系人強制収容所跡
平和を知る旅
太平洋戦争中に太平洋側の西部に住んでいた日系人たちが強制収容所へ強制的に入れさせられた話は有名であるが、マンザナー日系人強制収容所もその中の一つである。
シエラネバダ山脈の麓にあり砂漠が広がる中に建っている。どこまでも果てしなく続く砂漠の中をトラックに乗せられた日系人たちはどんなにか大きな不安の中にいたであろうことは容易に想像できる。
私たち日本人なら必ずは訪れたい場所である。



慰霊碑
行ってみるとわかりますが、何もない砂漠の真ん中にその強制収容所跡がありました。
その砂漠の中を連れて行かれた当時の日系人たちはどんな気持ちでいたか想像がたくありません。
写真右 「日系人たちは入るな」の看板
そこにはこの店は白人だけだと書かれています。
太平洋戦争が始まるきっかけとなったハワイの真珠湾攻撃の後、日系人たちに対する差別がますます増加し、人々の憎しみは凄まじい状態でした。




写真上3枚 当時の日系人たちはどんなにか大きな不安の中にいたことでしょう。
強制収容所へ送られたのはアメリカ西部に住んでいた日系人たちでした。太平洋に側に住んでいたためスパイを疑われたのです。
東部や中西部に住んでいた日系人たちは強制収容所へ送られずにすみました。
ところが・・・!
↓

バスケットボール場跡
差別されるだろうと思われたのが、その収容所の所長である米軍将軍は心の温かい人だったのです。彼は日系人差別に疑問を持っていました。
そのためその収容所の中では自由にさせたのです。家族は一緒の部屋に住むことが許されたのです。他の収容所は家族が一緒が認められず男女別々に収容されるのが当たり前だった時にですから、大きな驚きです。
写真左はバスケット場跡ですが、そのスポーツの試合も許され、それを応援するチアガールがいて皆スポーツ観戦を楽しんだりできたのです。
全く自由な雰囲気の中で日系人たちは生活することができたのです。

収容所の中 清潔で家族も一緒に住むことが許された。それが他の収容所との違いでした。他の収容所では家族同伴はおろか男女別々にさせられたりしたのです。暴力を受けられた収容所もあったのです。そう考えるとマンザナー強制収容所は人間として住むことのできた場所であることがわかると思います。
上記にに書いたようにマンザナー日系人強制収容所は温かい心を持ったアメリカ人将校によって温かい雰囲気の中自由に日系人たちは生活することができました。外は相変わらず日系人への感情的な憎しみに満ちた差別の嵐が吹き荒れていたにも関わらずにです。

写真左 アール・ウオーレン元連邦最高裁判長
ウオーレン元連邦最高裁判長は元カリフォルニア州地方検事を勤めたのちに第30代カリフォルニア州知事(1943年〜1953年)そして連邦最高裁判長を(1954年から1969年)になった方である。
戦争中の時期のアール・ウオーレン氏は日系人たちに対して積極的に差別を支持し強制収容を推進したが、戦後はリベラルな裁判を行うなどした。日系人たちに対する差別を行ったことに対しての批判が起こると自分の行為を誤りと認め反省を表明した。
参照:ウイキペディ「アール・ウオーレン」よりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アール・ウォーレン
ラルフ・ローレン・カー元コロラド州知事
1938年から1942年までコロラド州知事を務めた。第二次世界大戦中の米国内で吹き荒れた排日感情の嵐が吹き荒れた時に日本人および日系人たち(当時その人たちに永住権を渡されるのをアメリカ政府は拒否していた)を庇護した勇気のあった方です。また日系人強制収用案にも強く反対したことでも知られています。
ウイキペディア「ラルフ・ローレンス・カー」にはラルフ氏が知事だった時に大変印象に深く残る演説が載っています。どうぞご覧ください。https://ja.wikipedia.org/wiki/ラルフ・ローレンス・カー

ラルフ・ローレンス・カーコロラド元州知事

写真 アマゾンより
鈴木美智子が昔読んだ本です。高村まりこさんに勧められて読んだのですが、とてもいい本でした。
日系アメリカ人ユリ・コチヤマ氏
(1921年〜2014年)
ごく普通の女の子だったのが、1941年12月の日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって運命が大きく変わった。アーカンソー州のジェローム矯正収容所へ家族とともに送られた。貿易商を営んでいた父親はハワイの真珠湾攻撃後FBIの執拗な取り調べの影響で精神的にも参ってしまっているところへ強制収容所送りという精神的ダメージもあって、強制収容所で亡くなった。戦後故郷のロサンゼルス南にあるサン・ペドロに戻ったところなんとユリの家は近所の人たちによって守られそのおかげでユリの家族は自分の家で再び暮らすことができたのです。それはユリのお父さんが近所の人たちとの交流を最も大切にしたおかげで近所の人たちは戦中ユリ一家の家を守り、家の中をいつも綺麗にしてくれたのです。
差別の嵐が吹き荒れても近所の人との交流を大切にしたことで近所のアメリカ人たちが家を守ってくれたという事実もあることを忘れてはいけないと思います。
フロイド・シュモー氏
(1895年9月21日〜2001年4月20日)
米国人。平和運動家として知られている。
第二次大戦中は強制収容された日系アメリカ人たちを支援し、戦後は原爆で荒廃された広島の復興への支援などをした。
シュモー氏は広島と長崎に原爆が落とされたと知った時「とんでもないことだ!」と大変な怒りを示しそして悲しみの中で動いたのである。それは被災者のための家屋建設支援であり、一口1ドルの寄付を募って全米を回り、その後広島へ何回か行って、支援者たちと共に家造り活動をした人物です。その後長崎へも同様の活動をしたのです。(ウイキペディアより参照)
フロイド・シュモー氏
支援して建てたシュモーハウスの前で
(ウエブページ 「ポコアボコ」より)

広島で家造り活動していた時のフロイド。シュモー氏
(ウエブページ 「BrndNews フロイド・シュモー氏はどんな人物か」より)
ツアー企画者、鈴木美智子よりの言葉
上記のように増悪の嵐が吹き荒れる中で差別に反対し日系人たちを庇護する勇気ある方、マンザナー日系人強制収容所での米軍将校のように差別に疑問を持ち、強制収容所の中だけでもと差別のない自由な雰囲気を作らせた方もいらっしゃる一方で戦争中はその嵐に飲まれて自分も差別に賛成したアール・ウオーレン氏が戦後反省し後悔して裁判所でリベラル的な判決を下し続けた方がいるように、人間はそういう勇気を持てる、反省することもできる光を心の中に持っている存在であることを皆さんに知ってもらいたい。そして皆さんも差別があってもそれに飲まれず差別を拒否し、また差別したらそれを素直に認め公開と反省できる、心に平和の灯火を灯すきっかけを持って欲しいの願いを込めてツアーを企画したのです。
これこそが平和を知る旅の目的です。
どうか皆さんもツアーに参加して平和の灯火を心の中に灯すべくどうかツアーに参加して欲しいと強く願います。
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